妙なる囁きに 耳を澄ませば
          〜音で10のお題より

 “耳を塞いで"


それは昨夜に遡る。

例えるなら まるで海辺の凪の頃合いを思わせるような。
不自然なくらいにそれは静かな夜陰の底で、
ブッダは ふっと目が覚めた。
早寝したそのまま朝まで目が覚めないのが彼の常であり、

 “…あれ?”

おかしいな、何か物音でもしたのかな。
そういやさっきも妙な時間に目が覚めたんだよね。
耳を澄ませば、ずっとの遠くで 時々雷の音がしているけれど。
まさかに それで起こされちゃったかな?
雷といえば、

 “……イエス?”

彼も雷を怖がりまではしない。
だって、天におわす彼の父上のなさること。
何だか機嫌が悪いみたいだなんて、
曇天を見上げ、案じて差し上げることはあっても、
落ちるんじゃなかろうかなんて怖がりはしない。

 「…イエス?」

すぐお隣の布団には姿はなくて、
夏掛けがくしゃくしゃと壁際に丸まっているだけ。
トイレかとも思ったが、
しばらく待っても出てくる気配がまるでなく。
ブッダもまた、布団から抜け出してキッチンまで出てみれば、
仄暗い中にうっすらと浮かぶ、すぐ目先の玄関に彼の靴がない。
ますますと不審を感じつつ、
このまま待つのは何だか居たたまれなくて。
ジョギング用のトレパンへボトムだけ穿き替えると、
足音に気を使いつつも表へ出てみる。
未明という時間帯の夜気は一番つかみどころがなくて。
宵には結構吹いていたはずの風も何故だかひたりと止まっている中、
イエスの姿はないものかと見回せば、
駐車場の遠い一角に人影がある。
街灯もなく空に月もない晩だのに、仄かに輝くのは白い翼で。

 “…え?”

心当たりがあり過ぎて、気がつけば急くように足を運んでいる。
だってそれは、
自分たち聖人にしか見えない、天の存在だという証し。
姿で何とはなくのあたりをつけたその通り、
数多いる天使たちの中でも群を抜く実力者、
大天使でイエスの守護天使でもあるミカエルとウリエルが佇んでいて、
陽気で明るいという日頃を知るブッダには意外なほど、
何やら難しそうな顔になり、真摯な話をしていたらしく。

 「起こしちゃった?」

そんな二人と向かい合う格好で立っていたイエスが、
天使たちの視線に促され、背後にあたるこちらを振り返る。
彼もまた、パジャマ代わりのTシャツに、
下はGパンを穿いたという、
いかにも普段着、いやいやそれよりずっと砕けたいで立ちだのに。
その姿の輪郭をおおうような、
神々しい光の存在を向背に置きながらも、
存在感では最も際立っての冴えて見える彼だというのが、

 “……イエス?”

根拠もないまま、妙にブッダの胸元を騒がせる。
威嚇も威容もおびてはないのに、
どこか何かが違うというのが察せられ、

 「あのね、ブッダ。」

いつになく静かな口調なのは、周囲への考慮も勿論あったのだろうけれど。
そんな配慮以上の重厚な静謐を感じ取り、
厳かな口調なのにもかかわらず、不吉な響きを予感したブッダの元へ。
あっけないほどさらりと届けられたのは、

 「私、これから天界へ向かわなきゃならないんだ。」

 「え?」

それは自然な反応で、
なんで?という意をありあり含ませた、
ずんと幼い子供のような訊き方をしていた。
だって、

  不意打ちも同然の、あまりに想いもよらぬこと。

ほんの昨日、いやさ ほんの数時間ほど前まで、
あんなに屈託なくも安寧に、
無邪気に笑い転げたり、拗ねたり それへと謝ったり、
何の変哲もない時間をこそ、
当たり前の居場所にしていたじゃない。

 「そんな急に…何かあったの?」

下界へやって来るときも、一番に気を遣ったのは
自分たちの荘厳なオーラが徒に洩れぬかということで。
世界的な宗教の開祖という身なのは伊達じゃなく、
それぞれに天界での立場や位置も重く、
何かあれば対処や判断にと呼び出されて当然だったし。
それ以上の悲劇を重ねさせないよう、人々を導くためにと、
原罪による混乱が渦巻く地への降臨を請われることだってあるやも知れぬ。
何かしら、そんな急変が生じての緊急の招聘なのかと問うたブッダへ、
イエスは玻璃の双眸をやんわりと微笑う形にたわめて見せると、

 「ブッダへの説明は、
  そう、あの人たちがしてくれると思う。」

振り仰いだ空の一角から、
よほどの緊急時でもなければ使わぬ直通の霊道が開き、
装束やまとう光の質から、
浄土からの使者らしい存在が降りてくるのが見えて。
何事かという軽い混乱から、
せめて現状を捕らえたいがための視線、そちらへ向けたままでおれば、

 「ではね。」

  そんな短い一言だけを残して。

ハッとし、振り返ったこちらからの応じも待たぬまま。
歩み寄った天使らに囲まれると、そのままするすると光の繭玉のようになり
ふわり浮き上がり、天へと昇っていってしまった彼であり。

 「…………そんな…。」

そんなものなのかという、肩透かしにも似た喪失感が襲う。
そもそも、雲上といえど別々の遠い居場所に住まう二人で。
元いたところへ戻るということは、
こんな風に“一緒”に過ごすなんて
容易く適わなくなるということでもあるというに。
もう終しまいだよというのって、
そうも簡単なものなのかと、呆気に取られた次には
胸の底を深くえぐられたような、痛みとも悲しみともつかぬ想いがしたけれど。
しんと静かな黎明の中、

 「落ち着いて聞いてください、シッダールタ。」

コトは急を要します。
イエス様が言葉少なに大急ぎで発ってしまわれたのも、恐らくはそのせい。

 「え…?」

どれほど愕然としていたものか、
いつの間にかすぐ間近まで降り立って来ていた人影があり。
麻地だろうスーツ姿という、編集者としての見慣れたいでたちではあったれど、
向背に天人らしき連れもいる彼であるところを見ると、
今日の訪問は、本来の肩書き、仏教の守護としての降臨であるらしく。
この梵天にまで同情されたほど、我を忘れかかっていたブッダだったが、

 「高次界の階層に、
  負界からの瘴気が近づきつつあるのです。」

 「負界…。」

随分と四角い言い回しをスルリと理解する。
まだ意識はそれほど浮足立ってはなかったらしく。
表情や態度は微妙に呆然としているブッダへと、
それでも思慮はしてくれぬまま、歯切れのいい呼吸で、梵天は言を続けており。

 「あなたが人の和子に紛れて過ごしておいでのこの下界を含む、
  我らの存在している次界を陽界とするなら、それを暗転させた裏次界。」

やや専門的な話ゆえ、
置いてかれぬようにと意識を冴えさせ、気になるところを問い返す。

 「それって、ですが…確か、
  単なる概念、イデアとしてしか把握されてはなかったのでは?」

 「ええ。」

実在するかどうかは二の次、
世界観とか哲学を語るとき、
そんな膨らみを構築することで、
より多角的に自分たちのいる足元を解析も出来ようと。
結構 以前の昔から存在した概念ではあって、
ブッダもまた何かの折に余話として吸収してもいたこと。
とはいえ、現実感は薄く、実在を口にする者とてなかったことだのに。

 梵天としては、
 単なる学問上の理論で留め置かぬ把握も深めていたようで。

 「実在したとしても、同居することかなわぬ存在ですからね。
  触れ合ったが最後、融合時に途轍もない反応を起こす。」

裏と表の二つの次界、
すなわち、同じ次界、同じ時間軸に本来同座し得ないものが、
同じく浮かんで向かい合ったなら。
全て重なり合ったなら。
全ての存在が同軸に二重の質量を圧縮されての、
そこに居ること有ること適わずとなり、

 「次界ごと暴発した末に混沌へ戻されるのです。
  互いの存在を目視するだけでも世界の終末レベルの危機。」

ゆえに、あくまでも理論上のものと、されて来たまでのことなのだと、
さらりと言ってのけてから、

 「その一部が今、
  随分と遠い高次界の階層にではあれ、
  こちらの領域へはみ出しつつある。
  しかも、善からぬ組成のままで、です。」

同一空間には共存出来ぬことが前提の、
そうまで相反する次界からの侵食というからには。
ブラックホールどころじゃあない、
触れて重なったものは、空間でさえも腐食させる凄まじさだそうで。

 「空間を?」
 「ええ。差し入る光を溶け落とし、
  微細物質を揮発性の高い鱗粉へと転変させている。」

そんな存在が、掴みどころのない瘴気が、
我らが住まう天界を、
人の和子らの満ちる大地を覆ったらどうなると思います。

 「あ…。」

意志の力で練り上げた光をまとい、
邪や魔物といった負なるもの、
祓い除き、弾き飛ばせる聖人ならばともかくも。
殻で囲うてでなければ、
その個、魂魄を守れぬような人の和子らは、
恐らくひとたまりもあるまいて。

 「そんな事態が…。」

成程、それでは のうのうと有給だからなんて知らぬ顔も出来ぬ。
情況がやっと飲み込めて、表情も引き締まったブッダであり、

 「負に対抗し得るのは光のみ。」

天乃国の天使らが
その身を楯にしての防御を次界の外延で張るとか。

 「光なら私たちも、」

急くように言いつのる彼なのへ、
だが、梵天はあくまでも冷静な態度のままであり。
それというのも、

 「ええ、申し出ていたのですがね。」

 丁重に断られました。
 …っ。

お呼びでないと傲慢なことを言っているのではなくて、
我らにはこれしか出来ぬから先陣を切らせてもらうまでだと。

 『あなたがた浄土の天部の皆様には、
  尊き如来様たちを守っていただかねば困る。』

そして、
それは長きにわたる徳の蓄積により、
強靭緻密に練り上げて来られた濃密さがなす、
剛の光を放つ如来の皆様には。
我らが打ち砕かれでもした最悪の危機への、
後がない背水の陣、最終防御壁になっていただかねばならぬ。
弱き人々を、小さき者を守るため、
勝手ながらこれが一番確実な策と踏んでの運んでおります次第。

 「もっと早くに気づけたならば、
  意見交換込みで検討し合うことも出来たでしょうが、
  もはや時間がありませぬと。」

そのような迅速果断が、
生まれながらに光の者である天使たちの最たる特長でもあり。
時に仲間でさえ冷酷に見切るほどの残酷なまでの英断も辞さぬまま、
これまでも幾多の危機から世界を護って来た彼らの手筈は、
こたびもまた鮮やかそのものでもあって。

 「まさか…イエスも?」

自分と同様、そんな気配なぞ知りもしなかったはずの彼もまた、
そんな天乃国の布陣へという、突然の招聘を受けたのだろか。

 「ええ。」

所属する界の異なる組織での手配、
厳密には“恐らく”な運びではあれ、
梵天が断言するのも無理はない。

 「彼らの御主、神が自ら動くことは出来ません。」

最も強く崇高な光を宿される存在ですが、
だからこそ動かれてはならぬ理屈は判るでしょう?

 「…はい。」

この世界の主柱でもある存在ゆえに、
万が一にも損なわれてはならぬ。
あまりに強大な光ではあれ、
だからこそ 一点でも一角でも欠けた場合に
どんな影響が出るかは もはや測り知れぬので。

 「なので。
  せめて、その御子であるイエス様をと。
  彼らは迎えに来たのでしょう。」

彼もまたそれは豊かな慈愛の光を内包しておいでの存在、
世界が終末を迎えたその後、それは忙しく立ち働かねばならぬための、
膨大な光と力を持つ御仁です。
こたびは主軸とされてもおりましょう。

 「その旨を天使らが説きに来ていたはずです。」
 「…ええ。今さきほど、此処で。」

そうかと事情は判ったけれど。
それでも、イエスへの
どうしてという、気持ちの上での枯渇は癒えぬままだ。

 大丈夫だと、ずっと一緒だと言ったじゃないか。
 君が“いつも一緒だ”って言ったんだのに。

なのに、こんな大事なことへ、何とも言ってくれないなんて。
もしかして最悪、もう逢えぬかも知れぬのに、
その姿やその声を、強く刻むこともさせてくれないで。
またねとも言い置かずの、
あまりにつれなく去っていった彼だったのが、

  ブッダには、言いようなくの
  胸に苦くて、切なくて堪らない…。





   〜Fine〜  13.09.03.


  *意外や意外な展開です、驚いたですか?
   実は別なお部屋では
   こういう手合いの話が必ず一個はあるという悪いくせが。
   こちらのお話は まともに宗教がらみなので
   尚のこと、触れてはいかん設定ではないかと思ったのですが、
   思ったのですが ……夏の暑さがいかんのです。
   中途半端なSFはよく判らないから好かんという方は、
   ここで辞めるか、次の次あたりの終章へ飛ばれるか…。



                   次話
遠 雷 

めーるふぉーむvv ご感想はこちらへvv


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